アルカトラズ島アルカトラズ島は、連邦刑務所だったことは広く知られていますが、実はその歴史はもっと古いのです。
その歴史を知っていただければ幸いです。時間のない方は写真館でお楽しみください。

アルカトラズ島の歴史

要塞時代のアルカトラズ

 何千年もの間、アルカトラズ島に訪れるのはオーローン族やミウォック族のインディアンだけという孤島でした。スペイン人がベイエリアに住みつくようになった1776年から、アメリカがメキシコ人からその地を略奪した1846年までの間、島は地図上には載っていたものの、まったく未開、未使用の状態でした。カリフォルニア最後のメキシコ政府がアルカトラズ島に灯台を建てる計画を立てましたが、果たされないまま、カリフォルニアはアメリカ合衆国に併合されます。
 その後、アメリカ軍の測量技師団が1847年にアルカトラズ島を調査するなど、アメリカ合衆国政府は島の有効利用を練りましたが、灯台を建設したり、島の表面を要砦化する直接のきっかけとなったのはゴールドラッシュでした。金鉱からの莫大な富によって、市の交易と人口は劇的に増え、1849年までに、サンフランシスコは人口300人ののんびりした農村から、2万人の欲望で満ちた賑やかな都会へと変貌したのです。
 1850年、陸軍委員会がサンフランシスコ湾に3つの軍事防衛設備の建設を提案し、このためゴールデンゲートの両側に巨大なれんがの要塞が建築されることになりました。入港する船の航路と一直線上にあるアルカトラズ島は、小さめの第3砦の用地として選ばれました。その後1852年に陸軍技師団が調査に入り、翌年1853年には建設が着工されました。
 1861年に南北戦争が勃発すると、アルカトラズ島には島の絶壁に111台の滑空方の台座が据えられ、島の頂上に作られたれんが建て要塞を防御するための、武装通路や出撃口が備えられました。
 南部連合にとって、サンフランシスコ市と豊かなサンフランシスコ湾は格好の攻撃目標でした。その防衛のため、アルカトラズ島は、ゴールデンゲート南方のフォート・ポイントとともに、合衆国陸軍の西部防衛計画の重要な拠点の一部となり、400人以上の兵士が島に常駐する他、砲台が島のほとんど全側面を固めました。また、1864年には、直径15インチ(約38僉法■苅苅哀櫂鵐鼻別鵤横娃悪圈砲梁臻い鬘灰泪ぅ襦別鵤粥ィ賢辧鉾砲できる重量25トンのラドマン砲など、最新式の武器が島に装着されました。しかし、南北戦争中に軍事技術が急速に発達したため、こうしたアルカトラズ島の防御兵器は早くも無用の長物となり、1907年、アルカトラズ島は軍部から要塞としての任務を正式に解かれたのです。
刑務所時代のアルカトラズ
 ある意味ではアルカトラズは当初から刑務所だったと言えます。1859年、11人の兵士が出撃口の地下に連行され、監禁されたのが、この要塞での永久島流しの始まりです。南北戦争中には、脱走、窃盗、強姦、殺傷などで有罪判決を受けた犯罪兵や、国事犯の罪に問われた市民、そして南軍の船員などが次々にこの島に収容されました。軍部はまた、19世紀中頃から後半にかけて起こった数々のインディアンとの戦いで捕らえたホピ族、アパッチ族、モードック族などのアメリカ原住民たちや、1898年米西戦争での戦争犯罪人を、アルカトラズ島に投獄しました。
 1907年に要塞としての意味を失ってから、従来の軍隊に代わり、合衆国陸軍警察が島に常駐するようになりました。その後一年もたたないうちに、陸軍は要塞を崩し、代わりに巨大なコンクリートの刑務所を建て、1915年にアルカトラズの名を「合衆国太平洋地区懲戒用兵舎」と変えたのです。その後まもなく、第一次世界大戦の反戦主義者がアルカトラズ刑務所に投獄され始めました。
 1930年の大恐慌時代、新設の司法省がこの島を最高警備施設にすることを思い立ち、1934年にアルカトラズ島は陸軍省から司法省の管理に移り、連邦刑務所として生まれ変わりました。アリカトラズで「臭い飯を食べた」1545人のうち、悪名高いのはほんの一握りで、アル・”スカーフェース”・カポネ、”ドック”・バーカー、アルビン・”クリーピー(ぞっとする、という意味)”・カーピス、ジョージ・”マシンガン”・ケリー、フロイド・ハミルトン、”Birdman of Alcatraz”のロバート・ストラウドなどが挙げられます。(ストラウドが有名な鳥の研究に勤しんだのはレブンワース刑務所でした。)囚人のほとんどは、脱走の危険があるとか、いざこざを起こすとかで、他の刑務所から厄介払いされた者たちでした。
 企てられた脱走数は14ですが、その中でもっとも有名なのが、フランク・モリスと、ジョン・アングリンとクラーレンス・アングリンの兄弟です。1962年6月これら囚人は、レインコートを浮き具として使い、サンフランシスコ方面へ向かったと言われています。3人の遺体はとうとう発見されませんでしたが、溺死したというのが通説になっています。
 警備の一環として、刑務所局はこの「岩」への面会人を慎重に制限しました。こうした孤立と秘密保持の姿勢が、アルカトラズ刑務所での厳しい牢獄生活のイメージを際立たせてしまったと言えるでしょう。こういう定説のほとんどは全くの嘘で、刑務所は掃除が行き届き、食事も良かったと言われています。但し、少なくとも警備という点ではアルカトラズ島は評判道りに厳戒でした。
 維持費と運営費の膨張により、1963年、時の司法長官ロバート・F・ケネディーは終にアルカトラズの閉鎖を決定しました。囚人たちは他の施設に移送され、アルカトラズはたった1人の管理人の手に渡りました。
アメリカ原住民活動家の占拠時代
 刑務所が閉鎖された後、アルカトラズは政府の余剰所有地として管理されることになりましたが、この間、今後の使い道について様々な提案がなされました。例えば、テキサスの富豪ラマー・ハントからは、初の宇宙旅行を祝い、そのテーマを使った民営の遊園地にしようという案が挙げられました。そのうちに、アメリカ原住民活動家グループが自分たちの活動拠点にしようとアルカトラズに目をつけたのです。
 こうした政治活動家たちは合計3回アルカトラズ島を占拠しました。最初は1964年でたった4時間の占拠、次が1969年11月9日で数人のグループが島に乗り込み、「全インディアン部族」の名のもとに島を要求しました。これは部族間の協調を掲げたグループとして歴史的意味を持ちます。その11日後の11月20日に島全体が完全に占拠され、19ヶ月に及びました。
 1626年に起こったマンハッタン島の売買をまねて、「全インディアン部族」は連邦政府からアルカトラズ島を24ドル分のビーズ、染色布、その他の交易品で買い取ることを提案しました。「米国大統領と国民に対する宣言書」の中で。彼らはアルカトラズ島が政府の指定したインディアン保留地を彷彿させると述べ、その理由として「近代設備から隔離され、岩だらけの不毛な土地で、獲物も住み着かないから」と書いています。
 アリカトラズの地理的位置とこれまでの背景、そしてその当時高まっていたアメリカ原住民族問題とがからんで、占拠に対する人々の興味は一気に増しました。マスコミは一般に好意的で、世論も占拠の味方をしましたが、時がたつにつれて、人々の支援にも影が差すようになりました。占拠者に食料や水を供給をし続けるための支援費用と労力の問題が深刻になるに従い、ピーク時には何百人もいた占拠者が次々と姿を消し、1971年6月、とうとう連邦当局が最後の数人に立ち退きを命じることになったのです。
 この占拠の余波がまだ去らないうちに、連邦政府から派遣された人員が、もと刑務所官吏の住居など島上の建物をブルドーザーで瓦礫の山にし始めました。幸いなことに、1972年に国会がゴールデンゲート国立レクリエーション地区(GGNRA)を創設し、アルカトラズをその一部に指定したことから、破壊作業は中止され、島は国立公園事務局の管理下に置かれることになりました。
 
                                     アルカトラズ島セルフ・ガイドブックより

 
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